廃線 リンク集
利用者や貨物の減少による廃線 [編集]
この要因が廃線の原因としては最も多い。日本では国鉄 (JR) や、その他の鉄道会社が自主的に廃止を決定したもののほか、1968年から行われた赤字83線に指定されたもの、1980年代に行われた国鉄再建法に基づく特定地方交通線に指定されたものなどがある(ただし特定地方交通線の中には、勝田線や清水港線のように沿線人口自体は多く、適切なダイヤ設定がなされてさえいれば存続できたと見なされている路線も存在した)。太平洋戦争中に「不要不急線」として休止されレールなどの資材を供出し、戦後鉄道路線として復活されないまま廃止となった路線(例・白棚線や愛宕山鉄道、京福電気鉄道三国芦原線三国 - 東尋坊口間、観光が主目的のケーブルカー)もある。
旅客・貨物の減少の要因としては、1960年代まではバスやトラックの発達が主要因であったが、それ以降は自家用車の普及(モータリゼーション)が主要因となっている。仙北鉄道の場合、営業末期には旅客、貨物ともに最盛期より減少していたが、赤字を出すほどではなかった。しかし、車両および施設の更新に多額の費用がかかることから、鉄道を存続させるよりもバスに転換する方が得策という、経営的判断による廃止であった。戦前、昭和初期において既にバスとの競合に負け廃線となっていた軽便鉄道も少なくない。また、沿線人口の減少が利用客の減少を招く場合も多い。近郊部でも国鉄改革に伴う、貨物輸送の大幅な変更(詳しくは1984年2月1日国鉄ダイヤ改正の貨物列車の大整理を参照)で車扱貨物の減少で別府鉄道のように廃線に追い込まれた路線もある。ローカル線沿線の人口の減少については1960 - 70年代には鉱業や林業の衰退など産業構造の変化によるものが要因の一つであったが、21世紀初頭では出生率の低下による影響も大きい。自家用車の普及により通勤需要の少ないローカル線においては、通学利用が主要な収入源となっているため、少子化による通学利用客の大幅な減少は廃線につながる要因の一つとなっている。
経営破綻による廃線 [編集]
利用減少の赤字による廃線ではあるが、鉄道会社そのものの倒産や廃業など、経営破綻をしたことが直接の原因となって廃線となった例もある。この例としては武州鉄道、磐梯急行電鉄、雄別鉄道がある。また、光明電気鉄道は末期には事実上の経営破綻状態で、電気代が支払えずに送電を止められたことでとどめを刺されて廃線となった。
また、慢性的な赤字状態で、ついには地域の公共交通の維持のためとして行政から支給されていた補助金が打ち切られ、会社存続が不可能となり会社解散、廃線となったものもある。この例としては野上電気鉄道、くりはら田園鉄道がある。第三セクターの三木鉄道の場合は、慢性的な赤字と三木市の財政難のため市長選挙で鉄道廃止派が当選し廃線となったものである。
その敷地や駅などの建造物、またトンネルや橋梁などが道路ほかに転用されたり、もしくは転用されないまま山野の中に土木構造物の遺構として放置されている状態を廃線跡という。
鉄道路線は細長く、他に転用することが難しいため、廃線当時のまま放置されている廃線跡も多い。また、道路に転用されていても、鉄道路線独特の、直線や緩やかなカーブを主体とした線形を保っている場合が多い(バス専用路線になっていたり、サイクリングロードになっていたりする)。跨線橋・橋台などが、わざわざ費用をかけて撤去することなく残されていることもある。駅跡などにはそれを示すモニュメントなどが造られていることもある。
趣味的な観点ではなく、地元になじみのあった鉄道路線が後年まで住民に認識されている例も見られる。一例として、山梨県甲府市徳行地区には「廃軌道」と呼ばれる通りがあり、バス路線の名称にもなっている。店舗などの案内地図や山梨交通が配布するバス路線図にも記載されているが、これは山梨交通電車線の廃線跡のことである。かつて鉄道路線があったことをうかがわせるものは(名前以外に)特に現存しないが「廃軌道」の通称は地元で認知されている存在である。
他方、山間部などでは廃線後長い年月を経て完全に元の自然の姿に還り、トンネルも崩落するなど現在では近づくことも安全とは言い難い廃線跡というのも少なくない。
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